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カラマーゾフの兄弟(上)

カラマーゾフの兄弟 上   新潮文庫 ト 1-9 抜粋

p109 ゾシマ長老  実行的な愛
 「―空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命をさえ捧げるという境地にすら達することもあります、ただあまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが、実効的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。しかし、あらかじめ申し上げておきますがの、あなたのあらゆる努力にもかかわらず、目的にいっこう近づかぬばかりか、かえって遠ざかってゆくような気がするのを、恐怖の目で見つめるような、そんな瞬間でさえ、ほかならぬそういう瞬間にさえも、あなたはふいに目的を達成し、たえずあなたを愛して終始ひそかに導きつづけてこられた神の奇蹟的な力を、わが身にはっきり見だせるようになれるのです。―」

p442 アリョーシャとイワン 論理より先に
 「この世のだれもが、何よりもまず人生を愛すべきだと、僕は思いますよ」
 「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
 「絶対そうですよ。兄さんの言うとおり、論理より先に愛することです。―」

 そしてこの上巻の終わりのイワンの『大審問官』の話は非常に検討し甲斐のある所であり、この作品のテーマもここらにあると思われた。この部分は抜粋ではなく、自分なりにまとめて語ろう。
 一つ前もって述べておきたい重要な点としてこの作品はキリスト教の作品だと感じたということがある。もちろんキリスト教といっても色々あるわけでその一面ということだが。これを読んでいて改めて日本人としての自分の神道や仏教、それ以上の風土の違いというものが強く感じられた。その一方で熱のこもった文章であるだけに、そういうせっかくの固有のものが薄らいでキリスト的考えが侵食してくるような感じまでしたのだ。つまり感化力が強いと言うわけだ。だからそのことにはよくよく注意したい。
 老審問官がキリストに対して、かつての『聡明な恐ろしい悪魔、自滅と虚無の悪魔』との問答を挙げて語る。要は自由か服従か、ということである。自由は尊いが厳しく重い荷物でもある。その荷を担っていく人間も確かにいるが、耐えられず、地上のパンのために服従を選ぶ人間も多くいる。つまり一部の人間が支配層となって多くの人間を従わせる。審問官はローマ・カトリックの自分たちが、キリストの考えを「修正」してその役目を果たしていると言うのだ。
 自由、例えば一人の人間が「自由意志で善を選ぶ」ということは直感的に尊く思われる。しかし服従の身にあっての安楽と自由の身にあっての苦難とは実際選択悩ましいものである。それこそイワンの言うようにこれほどの苦難を引き受けなければならないほど、その先にあるものは崇高なのか?逆に崇高なもののためにこれほど人々を苦しめる必要があるのか?ということである。そして重要な点は現実に多くの人間が尊い決断をできない、という事実である。それら多くの人間には服従による幸せが適当なのだろうか。
 まぁこれは難問なのですが、やはりキリスト教的考えということで問題をそのまま額面通りとってしまうことはないと思うのです。この問題には潜在的な前提条件が幾つかあり、それがいかにもキリスト教、唯一神教的であり、その潜在的前提が僕らの頭に入ってきてしまうことが先程述べた「注意したい」こと、侵食なのです。日本人として、己の感覚でこれら前提を無視するならばある意味これは考えるに値しない。無門関提唱の言葉を借りるなら趙州狗子『有無に渉れば、喪身失命せん』ともいえる。ここら辺が異文化の魅力というものだと思います。大きく視点を変えてくれる。やっぱり世界には色んな文化があった方が断然いいのですよ。
 よく日本人が「無宗教(実際はそうでもないでしょうが、無宗教と言いうるような形態であるところが重要だと思う)」と言うと「どうやって道徳を教えるのか」と驚かれる話がありますね。逆に言うと「カラマーゾフの兄弟」を読んでいて、ここまで道徳観念がキリスト教に拠っているのかと僕は少し驚きを感じました。なるほど、これにより強い道徳についての信念を持つことができるわけだ。しかしそれはある意味で脆くもある。神がいなければ善く生きる必要も無くなってしまうのだ。まるで報酬を与えることによって内発的動機づけが下がるように。その点、日本などでは人間が元々もっているような善性というものをより活かしているように思う。はっきりした信念のようなものではないからある意味では弱いかもしれないが、自然と抱いているようなものだからある意味では非常に強いのだ。善を行うのに明確な理由や法則、神との契約は必要ないのである。

 どうも頭が鈍い。言葉もとんと出てこない。まだまだだ。
 ところで最近この本を読んでるためにやたらと喋り方や思考が回りくどくなったw
 我ながら影響されやすい奴 いや名著ということでしょう。
 

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