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倫理という力

 

倫理という力 倫理という力

著者:前田 英樹
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 以下書き出し要約

 

 第一章 してはいけないことがある

  この人を怖れよ
 怖れのないところに、学ぶという行為は成り立たない。

  何が<禁じる>のか
 美味いトンカツを安く食わせるという回答は、社会のなかでだけ成り立つ。人を殺してはいけないのは、刑法があるからではない。殺人の禁止を必要とするような社会に、私たちが生きているからである。
 殺人の禁止によって、この社会を生んでいる何かが在る。社会よりもずっと大きい何かが在る。それが何なのか考え詰めることは難しい。けれども、それが在ることに気付かない者は、ほんとうにはいないのだ。この気付きは、ほとんど感情に等しい。そしてそれが単なるかんじょうに過ぎないと思い上がった時、人はとんでもなく誤るのである。

  道徳はどこから来るか
 道徳が結局人間のためになる
  例:共同体の維持
   動物 → 本能
   人間 → 知性のために本能が弱まり、その分を道徳で補う
         しかし本能とは違い、道徳はた易く破ることができる
         なぜなら道徳を作ったのは知性だからだ

  道徳には根がある
 人が道徳を守るのは、自分が所属する共同体を維持するためではない。「最大多数の最大幸福」というけちな分け前にあずかるためでもない。人は、ただ端的に道徳を守りたいのである。あるいは、倫理的でありたい、という感情を実は持っている。

  電車で席を譲るのはなぜか
 剣道場の道場主
  電車に乗る時、まず一番最後に乗り込むように言い、立っている人が一人もいなくなるまで座るなと言った。
 →お前たち剣道をする者は、しない者より強い。強いと無理にも思い込まねばならん。剣道をして強くなったということは、しない者に対する責任がたちまち生じたということだ。
  弱いと知りつつ、思い込み、席を譲ることができる。そういう人間はすでに強く、その強さは倫理的である。
  私たち子供は、こうした教えに発奮した。私たちにはそのことから来る強い喜びがあったからだ。押し付けの標語では、子供は恥ずかしくて席を立てない。

  倫理の原液
 ゴッホは、絵かきになる前に、牧師の世界から追放されてきた人である。追放の理由は、常軌を逸した彼の献身ぶりにあった。炭鉱に赴き、説教は何ひとつせず、貧しい炭坑夫たちに自分の衣服も食べ物も寝る所さえも与えて半死半生になった。教会組織が、そういう危険人物を牧師として許しておくはずがない。ゴッホを駆り立てたものは、教会でも聖書でもなかった。それはひとつの強い、極度に激しい欲求であり、彼はその欲求の出口を探して驀進しただけである。さまざまな共同体のなかに分化して、言葉になり、掟になり、習俗になった道徳を笑うことは、子供の知性にもできる。だが、それにもかかわらず、これらの道徳には知性を超えたひとつの共通の根がある。その根から登ってくる倫理の原液が、原液のままで、ほんのわずかでも個々の感情のなかに入り込めば、それは猛毒のように荒れ狂い、個々人を殺すことさえもある。普通には、私たちのなかで、原液は限りなく薄められている。

  禁止の声
 和辻哲郎:殺人、姦淫、盗みは、いかなる共同体であっても、まず倫理として「してはいけないこと」になる。ならざるを得ない。それは、「人間」が成立するところには必ずある「動的な人間関係の理法」であるほかないだろう。
 →ただ、この理法という図式は力そのものではなく、その力の源は人間の内側から生み出される。

 

 第二章 <人様>という考え方は重要である
  自分に命じる
 人は、ロビンソン・クルーソーのように無人島で一人ぼっちで暮らしていても社会のなかにいる。まず、彼には習得した言語があり、言葉による記憶がある。これから逃れて、彼は一日も生きられない。眠って夢を見てさえ、言語のなかにいる。彼はいつも何かしらを考える。その考えが自分に分かるには、他人に分かる言葉で考えなくてはならない。自分が話すところを、自分が聞く。二人の<自分>の間にあるこの間隙、距離は、すでにひとつの人間関係で占められている。批判したり、嘘をついたり、機嫌をとったり、言いくるめたりする相手は、すでに自分のなかにいる。
 殺人者であれ、泥棒であれ、麻薬中毒者であれ、人は何とかして自分と折り合いをつけようとする。人間が、この二重になった自分から逃れることはできない。
 自分に命令する、ということが人間にはできる。私たちは、どんな時でももう一人の自分に付きまとわれ、この自分を説得しないことにはどうにもならない。私たちの心は、自分自身の社会性から逃れて生きることができない。この時、説得するのでなく、命令する、というもうひとつの態度が人間には可能である。
 自分への命令が、完全に自由意志によって為されうるためには、その命令は社会を裏切るものであってはならない。裏切るどころか、それへの責任を新たに生まれさせるような命令でなくてはならない。自分というものの二重性は、ここでは分裂を起こさない。命令を実行する行動の充実のなかで統一される。それが、自由ということだ。

  欲求と命令
 道徳教育の根幹は、子供たちに倫理の原液から登ってくる欲求をはっきりと経験させることにある。

  カントの考え方
 意欲された行為は、どんなものでも一定の信条をもって為される。道徳への「意欲」から起こる行為は、どんな信条から為されるべきか。それ自身「普遍的法則」となるような信条から。そこで、この行為に対する定言的命法は、次のようなものになる。「信条が普遍的法則となることを、当の信条を通じて自分が意欲できるような信条に従ってのみ、行為しなさい」(『人倫の形而上学の基礎づけ』)。要するに、私たちが行為を起こす、その信条が、普遍的法則となることを意欲せよと言うのである。
 しかし、カントが言うような「意欲」が、なぜ道徳において起こるのだろうか。それ自身を目的とした、ただ普遍的であることを意欲するだけで自己を支えきるような、そういう行為がなぜ実現されうるのだろうか。カントが見出した「理性的存在者」としての人間が、それ自身を目的とするような価値を持つからである。
 「理性的存在者」は、普遍を意欲し、また自由に意志して成り立つが故に、自分自身を目的として存在することができる。

 

 第三章 約束はいかに守られるべきか
  社会の圧力が低下している・・・・・・
 躾を可能にさせる社会の圧力が、親からも教師からも感じられなくなったとすれば、子供が躾を受け容れるのは、感化を通してだけ、ということになるだろう。感化と一体になった躾なら、今でも成功する見込みがある。社会の圧力を介さず、感化と一体になって為される躾というものは、実に躾の理想形にほかならない。
 そのとき躾を支えるものは、非人称的な圧力ではなく、名前を持ったある人間の伎倆である。この伎倆は躾を支えると同時に感化を与える。
 その技は、人に教えることができるだけではなく、それを習得したいという欲求を生産する力を持っている。

  何が慣用を制するのか
 社会や共同体は、人間にとって不可欠だというよりも、人間はそのなかにしか生まれてこないものである。したがって社会や共同体の成立に対して進んで義務を負おうとする態度は、その普遍性によって、また矛盾のなさによって、あらゆるタイプの利己主義や快楽主義に勝るのである。義務は感情のなかにあるものではない。好きだから、気持ちがいいからするのではない。そんな理由ですることが、義務を果たすことに優先されるなら、それは人間に対して基本的な矛盾を犯すことになる。
 しかし、ある人々は言うだろう。理屈はそうであっても、現実には判断や意志が感情に勝つという保証はない。社会や共同体に対して負う義務が、自分だけいい思いをしたいという感情を制して私たちを動かすことがあるとすれば、それは、その感情よりもっと強い感情が、義務に結びついて働く時ではないか。村や国家や民族のために身を粉にして働き、死ぬ人間はそうやって生まれてくるのだと。
 まったく、その通りである。けれども、義務への意志が、こうした感情、つまり祖国愛や民族愛の助けで利己主義、快楽主義に打ち勝った場合には、義務はいつも不完全にしか果たされないだろう。
 実際には、こうした義務が、感情に打ち勝つのは、義務の判断が、あらゆる感情よりも強い倫理の欲求に浸され、なまなましい力を得る時である。

  学校の規則か友達との約束か
 山鹿素行は、「武士道」を社会全体の成立に対して進んで義務を負う者の普遍的態度とするところまで考え詰めた。彼によれば、百姓は土地を耕し、職人は器物を作り、商人は生活に必要な物品の交易に携わる。彼らの仕事が社会に益することは、明らかである。その職分が、生存の理由が明らかでないのは、武士だけだ。ないが故に、それを探し求めて得るのが、武士なのである。素行の考えでは、武士の職分は、進んで人倫の道を行ない、行なうに足る学問をし、邪悪を誅する武芸に励み、「以テ天下ニ天倫ノ正シキヲ待ツ」(『山鹿語類』巻第二十一)、このことよりほかにはない。
 約束を守る二つの仕方に間には、どんな関係があるだろうか。約束を守る第一の仕方は、義務を果たすことにある。果たすべき義務を負うことは、義務についての意志や判断によるが、実際にその義務を果たす上で私たちの心を鼓舞するものは、普遍的な倫理への欲求しかない。けれども、あるゆる義務は共同体の成立に対する義務であり、その限りにおいて、約束を守ることが普遍的な倫理と完全に一致することはない。第二の仕方では、約束を守ることは、普遍的な倫理の反復される創造そのもののようにして為されていく。このようなことが、実際には私たちの身近で絶えず起こっているのだが、私たちはこのことの重要さにほとんど気付いていないのである。

 

 第四章 宗教にはどう対するか
  マインドコントロール
 宗教をかたる詐欺の特徴は、やたらに組織を拡げ、人心支配の欲望に憑かれ、政治に直接食い込みたがるところにある。
 詐欺は、それに引っかかる人間がいなければ成り立ちようがない。だから、被害者が時に共犯者の役割を果たしているように見えるのは、どうもいたしかたない。宗教をかたる詐欺では、特にそうである。ここでは、騙している人間の行動より、騙されている人間の心のほうがはるかに厄介なものになっている。騙している連中は、単なる詐欺師だろう。騙されているほうは、単なるお人よしではない。この人の心のなかで初めに燃え上がったものは、明らかに宗教的な情動である。
 人間の集団がその機能をうまく発揮するには、多かれ少なかれ集団内で共有された幻想が要る。この幻想は、人間固有の記号作用で組織されていて、他の動物にはない無数の欲望を生産する。資本主義は、こうした欲望の生産を飽和点まで押し上げては、自動的に引き下げる最も強力な幻想システムである。
 本来、宗教的情動とは、共同体のマインドコントロールの外に一挙に出るものである。また、出よと万人に呼びかけてくるものである。ここには、情動と同時に極度に強い一種の覚醒がある。

  人間にだけ、なぜ宗教があるのか
 ところで、ベルクソンは、人類と共に宗教が存在してきた理由を非常に明晰に説明している。ベルクソンの考えでは、生命の領域は本能という自然機能によっていったん完成を見ている。けれども、生命の領域は進化の途上で本能とは異なるもう一本の機能の線を、つまり知性を分化させている。この分化が、生命の領域そのものに一種の攪乱を引き起こした。知性は個体が行動するための能力にほかならない。
 知性による観察も推理も達することのできない集団調整(たとえば、生殖に関しての)を、本能は即座に行なう。知性がこの調整を行なうとすれ、知性は見えないものを見えるかのように、知りえないものを知りうるかのように振る舞わなくてはならないだろう。人間の知性が、宗教上のさまざまな幻像をあえて生み出すのは、そのためである。ベルクソンは、知性がこうした幻像を生み出す働きを「仮構機能」と呼んでいる。死後の世界や転生の物語を、言葉や絵図で仮構するものは人間の知性せかない。こうした「仮構機能」は単に一般的な想像力のことではなくて、人間社会が本能に代わって必要とする集団調整機能である。

  宗教は倫理に何を付け加えるのか
 イエスの教えは、単に普遍的隣人愛という一個の倫理を説いているだけでは決してない。彼の教えは、隣人愛のうちに神への直観を含み、この直観は神の愛そのものと一致し、重なり合い、他の者たちに放射されていく。ここにこそ、あるいはただここにだけ、宗教が最期に持つ神秘的本質があると言える。動的宗教が倫理に付け加えるものは、神へのこの直観をおいてほかにはない。このような事情は、もちろんキリスト教以外の世界宗教を例にとっても説明することができる。

  倫理は宗教からどう独立するのか
 義務は、熱狂から最も遠い意志の判断によってだけ果たされる。何をどうすることが、結果として共同体を守るのか、どう守ることが共同体にとって必要なのか、これを判断できるのは感情でも仮構機能でもない。意志である。共同体への意志が支える倫理である。

  倫理の原液と動的宗教
 私たちが<倫理の原液>と呼んでいたものは、動的宗教の本質とどう異なるだろうか。ほとんど異なるところはない。前者は、社会の閉じられた道徳のなかに入り込み、その言葉を利用して私たちに何かをさせる。後者は静的宗教の仮構機能のなかに入り込み、それを利用して進む。後者が前者と異なるのは、ただ一点、<神>への無言の直観をその中心に永久に宿していることである。
 
 

 第五章 ものの役に立つこと
  釘を打つ知恵
 道具は外部の抵抗物に向かって直接使用されている限り、道具を使用する技術は、この抵抗物の性質に従わなくてはならないだろう。石に向かう道具は石の性質に、木に向かう道具は木の性質に従わなくてはならない。私たちの知恵はそこで育ち、そこで激しく働く。釘を打つことから捉えうる木の性質があり、鋸を挽くことから開きうる木の性質がある。

  物の学習に還る
 道具を使う知性は、二つの方向に分化したようである。つまり、一方は<物の学習>を極める方向に進み、他方は<記号の学習>を極める方向に進んでいった。

 

 第六章 在るものを愛すること
  在るものの前に身を屈める
 アランが書いたたくさんの新聞コラム(『プロポ』)のなかに「在るものを愛すること」という短文がある。これは、一九八〇年の復活祭の朝、ルーアンの地方紙に載った記事だが、何度読み返してもよい文章である。
 アランは書いている。この世には、理解せずに受け容れなくてはならないいろいろな物事がある。その意味で、何ぴと宗教なしでは生きていない。宇宙はひとつの事実である。その事実の前で、理性はまず身を屈めねばならないと。子供は、蹴つまずいた石ころに腹を立てる。大人は、雨だ、雪だ、風だ、日照りだとぶつぶつ文句を言う。こういうのは、彼らが物事一切の関係をよく理解していないところから来る。彼らは、何でも物事は気まぐれの意志みたいなものに依りかかっていると思っている。お天気屋の庭師が、この世界のあちこちに水を撒くみたいに思っている。
 けれども、「必然性」というものをいささかでも理解している人、そういう人はもはや宇宙に取り引き勘定を求めたりはしない。なぜ雨が降るのか、ペストが流行るのか、かくかくの死が訪れるのか、そんなことを尋ねたりはしない。なぜなら、こうした質問に答えなどないことを、この人は知っているから。ただもうご覧の通り、言えることはこれしかない。しかも、それだけで充分だ。在ることは、すでに何事かである。そのことが、あらゆる理性を圧倒する。
 そこでアランは書く。真の宗教的感情は、在るものを愛すること(aimer ce qui existe)にある。私はそのことを信じて疑わないと。ただ在るものなど、愛されるに値しないのではないか、あなたがたはそう言うかもしれない。だが、全然そうではないのだ。世界を判断せず、愛さなくてはならぬ。在るものの前に身を屈めなくてはならぬ。
 神は「必然性」をもって運行する唯一の「実体」だと考えるしかない。
 真夏の海水浴場でふと聞こえるあの静寂は、実は静寂ではない。聞こえているのは、宇宙の声である。私たちのすべての行動と無関係であり、しかも私たちのすべてを含んで流れている<在るもの>の声である。
 そういうものを懸命に拾い集める人間たちがいる。彼らは、今日では芸術家と呼ばれている。最も根底的な芸術は、常に倫理的なものである。なぜなら、そこには<在るもの>の前に身を屈める最も熟慮された、厳格なやり方があるから。

                          (了)
  

  
 

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